・サッカーai(2002年10月号)要約してます。
身代わりインタビュー(Q&A式のインタビュー) 波戸康広
(写真付・1枚どどんと胸から上のアップ写真、あとは愛車の前で私服で笑顔で映ってます。)

--W杯のイングランド代表が合宿した淡路島出身ですよね。 --
「うん。でも出身は津名町じゃないよ。イングランド代表が練習していた津名町のグラウンドで試合した事はあるよ。イングランド代表が合宿するって言うんで淡路島も知名度が上がるかなって思っていたんだけど大抵が「津名町」って報道されて淡路島とは報道されなかったんで残念だった。」

--淡路島はサッカーが盛んですか?--
「僕らの時代がピークだったかな。中学時代に県で準優勝したからね。とにかく友達を作るにはサッカーをやるしかないって感じだった。野球部が無い中学だったからね。」

--どういう町だったんですか?--
「淡路は瓦業が盛んでその関係の仕事や漁師が多い町。うちは瓦を運ぶ運送業を夫婦でやっていたんで両親がいない事が多くて幼稚園の送り迎えもお婆ちゃんにお願いしてって感じだった。周りの友達もそういうやつが多かったけど、さすがに寂しいなって言う気持ちになる事も多かったね。」

--ご両親は厳しい方でしたか?-
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「厳しいと言うかとにかく20歳を過ぎたら自活しろって事を子供の頃から言われていたんで、どないしょうって子供ながらに考えていた。サッカー頑張って何とかしなくちゃという気持ちになったよね。」

--じゃあ高校進学の時も色々考えた?--
「やっぱりサッカー強い所に行きたいって思った。中学の先輩だった興津大三さんが清水商業に行ってたんで、僕もって思ったけど全国大会で優勝するような学校だったし、そういうレベルの高い所に行って試合に出られなかったら意味ないしって色々考えて、滝二に。でも滝二もレベルは凄く高かった。」

--滝二は寮生活で大変だった?--
「厳しかったですよ。まず電話が出来るのが夜9時40分までで45分に点呼があって10時から10時15分まで風呂掃除とかあってそのあと勉強タイムで消灯は11時。でも先輩の洗濯とかマッサージをせなあかんから寝るんは2時位って事もあって。で起床は朝練習がある時は6時。その分授業中に寝ていたからね。」

--試合には出ていたの?--
「僕と吉田(孝行)は1年の時から出ていましたね。僕はそれまでFWだったけどコーチをやっていたゲルト(京都パープルサンガ監督)に左SBにコンバートされてそのポジションをやってました。

--淡路からそういう強豪校に進学してカルチャーショックはあった?--
「やっぱりレベルが高いなって思った。あとね、それまで外国人指導者を知らないじゃないですか?で、滝二でゲルトと出会ったんですけど、あぁこういうサッカーもあるんだって言う事を感じる事は多かったですね。たとえば高校のグラウンドって土だからタックルってしないんですよ。痛いし。でもゲルトはミニゲームとか平気でタックルするんですよ。ドイツ出身の彼は子供の頃から芝生でサッカーやってるからタックルも痛くない。そういうヨーロッパとの差というか違いを感じましたね。すごく小さな事だけど土でも平気でタックルするゲルトを見ながらボールへの執着心とかの違いも感じましたし。」


--3年生の時に高校選手権に出場。--
「3年のインターハイが初めての全国大会だったんですけどヒデ(中田英寿)のいる韮崎高校に負けて。でも選手権は優勝候補とか言われてましたよ。開会式の入場行進の時はすごく感動しましたね。ずっと憧れていた舞台だったんで。選手権の出場が決まってからずっと大会イメージソングを寝る前に聞いてイメトレしてた。大会はベスト16で終わった。最後の試合はPK戦で負けたんです。相手は近畿大会で4-0で下した滋賀県の守山北で楽勝かなって思ってたのに5番目のキッカーだったんですけど自分が蹴る前にもう勝敗がついていた。」

--93年のW杯予選ドーハの悲劇は見てた?--
「高校3年の時だったんだけど夜中の試合だったんで布団をかぶりながらテレビを持ち込んでみてた。先生が見回りに来るとテレビを消して先生が行っちゃうとつけてみたいな感じで応援してました。負けちゃってすごくがっかりしましたね。でもその次のフランスの時はもうJリーグに居たけど純粋にファンみたいな気持ちで出場が決まった時はスゲー感動しましたよ。」

--代表は全く別次元って感じだったんですよね?--
「はい。トルシエが監督になってからも試合とかよく見て自分的に代表入りたいって思ってたけど全く候補合宿にも呼ばれないしね。それで最後の2年で候補合宿に呼ばれて憧れの気持ちが現実になった。でも最初は代表でW杯って気持ちじゃなくて代表には巧い選手もいっぱいいるから皆と一緒にサッカーやりたいってそういう気持ちが強くて。まずは選んでもらう事を意識しだして、それからW杯って感じ。」

--高校3年生の時って刺激の多い1年だったね。進路についても考えた?--
「そうですね。全国大会に出て上には上がいるなって実感できた。
進路については親の言う時間まであと2年しかないしね。ヤベーよって気持ちあった。大学からの獲得の話はいくつかあって両親も大学の4年間は仕送りしてくれるって言ってくれたんですけどその時にJリーグの横浜フリューゲルスからも話があったんですよ。両親はやっぱり進学を勧めてくれたけど僕はサッカーしかやってこなかったしJリーグで頑張ってみたいなって。当時ゲルトもフリューゲルスでコーチしてたしね。」


--その年フリューゲルスには多くの新入団選手がいましたね。--
「ナラ(楢崎正剛)、吉田(孝行)、久保山由晴、光岡真矢の5人。皆今でもそれぞれのチームで頑張っているっていうのはホント力になるし嬉しいですね。すごいチームに入団したんだって思いますよ。」

--でもなかなか試合に出られず98年秋にチームが消滅。--
「入団4年目ですね。あの時の苦しさとか怒りとかそういうものはやっぱり一生消えない。選手皆で戦ったし。今回W杯のメンバーから落ちた時もあの頃のチームメイトが電話をくれたけど、やっぱり色々一緒に経験してきた仲間だからこそ繋がっているものってのがあって、それを改めて感じる事が出来た。絶対にわかりあえるものがあると思うんですよ。」

--フリューゲルス時代って試合に出られなくて辛かった?--
「4年ですからね。でもチームを変わろうっていう気持ちは全く無かった。居心地はよかったしレベルの高いチームだったし。いつもね2番手だったんですけど試合に出られないからって移籍っていうようりも目の前の1番手の人に負けないように頑張りたいって気持ちの方が大きかったから。代表クラスの選手がいたし練習でも充実してましたから。で4年目になって試合に出られるようになった、やっと積み重ねてきたものをだせるなって思った時にチームが消滅しちゃって。」

--波戸選手は合併し生まれた新しい横浜Fマリノスに入団。--
「高校の先輩だった寺川(能人)さんがマリノスに居たんだけど「誰もお前の事知らないって」とか寺川さんに言われていたし僕自身もマリノスの選手全員知ってるわけじゃないから。うわ〜行きづれ〜って感じで。しかもフリューゲルスって家族的な雰囲気のチームだったけどマリノスはもっとプロっぽいっていうか・・・全く雰囲気も違ったんで。でも今思えばそういう新しい環境の中で色んな人と接する事が出来た事はとても良かったと思えるから。」

--DFにコンバートされましたね。--
「1年目の終わりぐらいからDFに抜擢されてトップに帯同出来る位までになれて。2年目からは試合に出られました。」

--以前は熱くなり過ぎる所があったからDF大丈夫かなと思いました。--
「(笑)なおった。気が短い性格はかなりなおりましたよ。若い頃の自分を思い出すと丸くなったというか落ち着いたって思う。あの頃はホント子供でダメだったなとすごく思う。今も若い選手がすぐに熱くなっちゃったりしているのを見ると自分もあんな感じやったわって。気が短い事ってことだけじゃなく、やっぱり若い頃は気持ちの浮き沈みも激しかったし、それがプレーにもそのまま出ちゃってましたね。マリノスで続けて試合に出るようになって「これじゃあダメだ」って感じた。こんなだから監督も俺を試合に使えないんだと。ポジション争いをしていた井原(正巳)さんと比べても「俺が監督だったら井原さんを使うな」とかそういう風に冷静に自分の事を考える事ができた。レベルの高い選手と争った事で自分の欠点や課題を克服する事はもちろんだけど、もっと挑戦しよう、消極的にやってられないって事を強く感じる事が出来ました。」

--そういう姿勢が代表にも繋がった。契約更改の席で代表入りを公約。--
しましたね(笑)。代表に入るから年棒上げてくれって。強気で言いましたね。代表というのは目標にあったし、自分を追い込もうと。
でも何を言うとんねん、みたいにあとで思ったりもしたよ。何でそんな事言っちゃったのかなって。なぜか勢いで言っちゃった。でもいったん言った事は消せないし。「ヤベー」って思いながら頑張るしかない。」

--代表というグループに入った事で受けた影響というのは?--
「やっぱり気持ちというのは大きいなと。代表の中では俺なんてまだまだ若いし、巧くなれる機会はいっぱいあるんだから、もっと頑張らなきゃいけないと。ゴンさんなんて34才だけど、まだまだ伸びてるって気がするじゃないですか。それに代表に入っていたらマリノスでも下手なプレーは出来ないっていうプライドとかそういう気持ちも強くなりましたね。
そういう中で成長した部分もあるし、もっともっと成長しなくちゃっていう気持ちもさらに強くなった。」


--代表ではレベルの高い相手と試合をして感じる悔しさも大きいでしょ?--
そうですね。2001年の最後のイタリア戦もそうでしたね。攻撃面をアピールしたいと思ったんです。その年はずっと代表戦ではスタメンで使って貰ってたから2001年の印象を強める為に最後のイタリア戦でスペイン戦(初スタメン)の様な活躍をして2001年を締めくくってW杯イヤーに向けた弾みにしようって。でも気負いすぎて・・・。
2002年になっても代表に呼ばれたけど段々試合に出る時間が短くなっていきましたね。」

--W杯のメンバー発表はどんな気持ちで迎えました?--
「普段は公式発表の前に事前に知らせてくれるんだけど今回はテレビを見てくれって言われてたんで家でテレビ見てた。まあ自分が入る可能性はホンマに半々だと思って。
代表では2番の背番号が多かったんで「2番秋田豊」って言われた時に「あぁねぇわ」って思った。嫁とも「無いね」って話して・・・。
そのままシーンとしてハッと気がついたら嫁がリビングに居なくて。俺には見られない様に泣いてました。それを見た時にもうなんていうのかな・・・。もしもW杯のメンバーから落ちたら自分が一番辛いのかって思っとったけど嫁に一番辛い思いをさせちゃったなぁって。
自分がメンバーから落ちた事以上に嫁にそういう思いをさせてしまった事が辛かった。」


--高校時代からのお付き合いで2002年のオフに入籍されて。--
8年くらい付き合っていたし結婚するなって感じはあったのでW杯後に結婚してもよかったんですよ。実際そういう選手も多いでしょ?」

--結婚がマイナスに働いたと思われるのを心配される人もいるでしょうからね。--
「でも僕はW杯前に結婚して一緒に喜びを分かち合いたい、一心同体じゃないけど一緒にW杯に出たいと思ったからW杯前に入籍したんですけど。でもメンバー落ちた事で嫁に余計な思いをさせてしまったんじゃないかと。
もう2度と嫁にそういう思いをさせない為に、もっともっと頑張らなきゃいけないと思いました。
だけど発表後30分位は真っ白だった。1週間位はサッカーの事考えたくなかったし、ハワイに行って気持ちを切り替えましたね。」


--W杯は見ました?--
「日本戦は見たけどやっぱり悔しくて。選手は仲のイイやつらだし頑張って欲しい気持ちもあったけど・・・。
ホント悔しかった。複雑でしたね。だからベルギー戦位しか見てなかった。他の試合を見る元気も無かったですね」

--しかし見事に気持ちを切り替えて1敗で1stステージ終了。--

「去年は降格争いをしていて試合前からやっぱり弱気になる部分ってあったと思うんですよ。負けられないと思っててもね。
先制なんてされたら「あぁ絶対負けちゃう」って感じで。でも今は全然逆転できるだろうって落ち着いてプレーできるから。」


--残念な結果でしたが次に繋がるシーズンなのでは?--
「2位という結果には満足できないけど素直に受け入れて気持ちを切り替えて次こそ優勝出来るように頑張らなきゃ1stステージ、今までの事が無駄になる。」

--今までのサッカー人生を振り返るとジワジワと成長してるという。--
「そうだね、今26歳だけどこれからまだ伸びるし30歳位がピークになればって思ってます。」

--30歳・・・4年後といえばW杯の年ですね。--
「でもW杯が全てじゃないから確かに大きな大会だし目標だけどね。それよりもJリーグが大事だと思うし。
俊輔みたいにW杯出なくてもイタリアに行く選手も居るし。俊輔が頑張ってくれれば世界の目がまた日本に注がれてサッカーも盛り上がってくるだろうから。」


--中澤(佑二)選手もそうだけど波戸選手も雑草系の選手?--
「そうでしょう。マツ(松田直樹)みたいにエリートじゃない事は確か(笑)
10代で代表に選ばれた事はなかったけどA代表に入ることが出来た。だから現在たとえば高校生とかで代表に入れなかったって選手も勝つって言う気持ちを忘れなければ絶対に巧くなれるから。ちょっとでも「自分はもういいや」とか、満足しちゃったらあっという間に下降線をたどることになると思うからね。」




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